浄観は昭和17年の春頃に倒れ、一旦回復して18年の6月と9月に舞台に復帰しましたが
その後再発し、戦後は研精会に出演する事ができませんでした。
浄観は昭和31年5月28日に享年83歳で亡くなりました。
浄観の最後の演奏が昭和18年。その後、第二次世界大戦が熾烈をきわめ、世の中が混乱し、研精会も一時演奏不能となった時代がありました。
戦後、浄観はどのような人柄だったのか、どのような演奏家だったのか、知る人が少なくなってしまいました。
そこで、慈恭が晩年、浄観について語ったもの、浄観との思い出を少しご紹介させていただきます。
六四郎は人並みはずれた腕を持っていました。
六四郎は生まれつき手のひらと指の肉が厚く、三味線を弾くのに向いていました。芸の筋もずば抜けており、まさに鬼に金棒。
指の肉が厚いということは、三味線の糸を押さえる時、指先に妙味が加わるのです。
音楽は一音一音がバラバラになってはいけないので、余韻が大切です。
三味線の糸を押さえた指が次に移るまでに、前の余韻が残っていないと味がないのです。
つまり、チントンシャンと弾く場合、トンのところでチンの余韻が残ってこそ妙味があるので、それが技です。
六四郎はそういうところが素晴らしく上手かったのです。
ただ余韻を出すだけなら糸をこすれば誰でも出せますが、六四郎の余韻は筆舌では表現できない深い味わいを持っており、撥さばき、音締め、勘どころの良さも天下一品でした。
また、唄の歌詞を良く調べて、虫の音、波の音、風の音などの気分を実に上手く出していました。
そういう腕をもっていたので、若くして「熊野」という名曲を作っております。
これは六四郎の傑作だと思います。六四郎はそんな天才肌の人でした。
私と六四郎はさぞ気が合っていただろうと思われがちですが、決してそうではありません。
むしろ性格は反対で、私が黒足袋をはけば向こうは白足袋、私が右といえば左というほど違っていました。
けんかも随分しました。しかし若い頃けんかをして六四郎が先に家へ帰ってしまうと、すぐに追いかけて折れてあやまるとお互いにケロリとしてしまうのです。
不思議なことにどんな大喧嘩をしても、二人ともすました顔で稽古場にあらわれ、その後何事もなかったようにイキを合わせて舞台をつとめたものです。
六四郎は気が短く、私はのんびり屋。
性格の相違からどんなに喧嘩をしても、いざ芸となると不思議と融和してしまうのです。
仲直りした後の二人のイキはまさに格別でした。
いってみれば私たちの喧嘩はベタぼれにほれあった夫婦の痴話げんかのようなものでした。
何をおいても六四郎とは芸の研究をし続けました。
素晴らしい先輩方の芸をはじめ、芝居の話、犬の声、鳥の声にいたるまで長唄に関連させて話し合っては声の出し方、三味線の間どりを考え、ところかまわず私は唄い、六四郎は三味線を弾きまくりました。
私も六四郎もお酒が大好きで、その昔、桂太郎さんのお屋敷でシャンペンを2ダース平らげたこともあり、二人でハシゴすると5升くらいは軽く飲み干したものです。
そんな時でも芸のことは頭を離れず、六四郎の口三味線で唄い、あそこが悪い、ここが良くないとカンカンガクガクの理屈を言い合いました。
そういうわけで「芸の最後の仕上げは結局六四郎と二人でする」ということになるわけです。
私の唄と六四郎の三味線はイキの貸し借りのようなものでした。
以前にも研精会で「二人椀久」を唄った時、あるお客が息子の小太郎に
「君のお父さんと六四郎さんは、何か気まずいことでもあって喧嘩でもしたのか」と聞かれたそうです。
そのお客がいうには「六四郎が阿修羅のように弾きまくって切り込んでいくと、小三郎はハッシと受け止め、ウーンと突っ張って六四郎にたたき返している。あれはまるで真剣勝負だ」と驚いておられたそうです。
しかし私たちは喧嘩しているわけでもなんでもなく、ベストを尽くした結果の自然の成り行きだったのです。
とはいえ、いくらベストを尽くしても二人が「今日は完璧な演奏ができたね」ということはいまだかつて一度もなかったのが残念です。