小三郎に出会うまでの六四郎(二世 稀音家浄観)

長唄研精会発起人の三代目杵屋六四郎(二世浄観)と四代目吉住小三郎(慈恭)が交流するようになる経緯と、芝居長唄との関わりを知る上で、まずは年上である六四郎の略歴をみてみましょう。

誕生

六四郎は明治7年(1874年)3月4日に神田豊島町(現内神田)に6代目杵屋三郎助(本名杉本観太郎)の長男として生まれました。本名杉本金太郎。六四郎の本名は笛方で活躍した祖父初代住田又兵衛の名前をもらったそうです。

音楽環境で育った幼少期

金太郎は生まれて間もなく日本橋馬喰町一丁目に移りました。祖母かねに三味線の手解きを受けていましたが、友達から冷やかされることもあって、三味線を弾くのはあまり好きではありませんでした。

明治18年12歳の時に、傍から勧められて東京音楽取調所(現東京藝術大学)ヴァイオリン科に入学しました。
舞台演奏者一家に生まれ、音楽的才能に恵まれた少年でした。
 
 
21歳で名曲「熊野」を作曲するなど、若い頃から才能を発揮しています。

芝居の世界へ

明治19年、金太郎12歳の6月、西鳥越町に中村座が開場するにあたり、父三郎助と懇意の杵屋勝三郎から、三味線が手薄なので来てほしいとの話がありました。

そこで、約1年学んだ取調所ヴァイオリン科をやめて三味線方として芝居へ出勤する事になりました。
芝居の仕事に就いて2年ほど経った明治21年に三代目六四郎を継いでいます。14歳の時でした。
明治22年歌舞伎座開場時には、当時の歌舞伎座はやし頭、十二代目六左衛門に呼ばれて参加。
明治23年3月、歌舞伎座で九代目市川團十郎が「京鹿子娘道成寺」を出した時に四代目吉住小三郎が見習いとして歌舞伎座に出勤し、二人は出会うことになります。