長唄の譜が初めて刊行されたのは、大正5年11月でした。

曲名は「松の緑」です。現在でも活用され、一般に長唄研精会稽古本(研譜:けんぷ)と呼ばれています。

この譜本を考案したのは吉住小十郎(こじゅうろう)です。

 

本名は山田舜平、理学博士の田中正平の門弟でした。

田中博士は邦楽の五線譜による採譜事業を起こし、約3,000もの邦楽曲を採譜しています。

門弟の山田は自ら小三郎に就いて長唄を学び、小十郎の名を許されました。

その上で田中博士の指導を得て、小三郎の節による稽古本を初めて作成しました。

研精会の譜を多数残した小十郎は、昭和8年に享年48歳で没しています。


研精会譜と同じ読み方をするのが箏曲山田流の譜です。

はっきりとした理由は分かりませんが、当時、何らかの交流があったのかもしれません。

研精会譜は縦書き、山田流の譜は横書きで記載されています。

小三郎は・・・

「長唄の楽譜のこと」として以下のような言葉を残しています

 

私の弟子で小十郎というのがいたのですが、この小十郎が長唄を楽譜にすることを考えた人で、その功績はたいしたものです。

それを作るのについては、まことに涙ぐましい苦労と努力をしていました。

根が真面目な男で、譜にする方法を考え出してからは、私の唄を譜にするのだといい、私の演奏のほとんどを屏風のうしろに回って、一心に記録し研究していました。とくに、独吟というと、屏風のうしろが小十郎の研究室になり、一番が終わると譜に表せないところを質問してくるのです。また、同じ曲でも、日や状態によって、多少の違いがあるものですから、その違いなどを一つ一つ聞きに来るのです。

「唄なんてものは、絵に描いたようには出来ないし、譜にするのは無理だ」といっても、表現できないところがあっても、なるべくそれに近い表現にしたいということでした。

後には、この研精会譜を音楽学校(東京藝術大学)でも使うようになりました。譜本が出来てからは、どれだけの人が喜んでいるか知れません。今では、幾通りかの長唄譜がありますが、広く邦楽全般にわたる統一譜が考えられると、邦楽発展に良いと思うのですが。