映像は戦後の演奏ですので、浄観の演奏ではありません。
(タテ三味線は浄観の息子4代目稀音家六四郎です。)
私自身も「花垣長幸(ちょうこう)」という芸名で出演しています。
この曲は明治44年5月 第96回長唄研精会で発表されました。
三味線を六四郎が、唄を小三郎が作曲しています。
紀文大尽の作曲について慈恭はこう語っています。
井伊蓉峰がやった紀ノ国屋文左衛門の芝居を見たときに、こんなものがやってみたいと中内蝶二さん(当時慈恭に長唄を習いに来ていた作家)に話して書いてもらったものなのです。ちょうどその時代は、日露戦争の好景気時代で、成金がたくさん出来ました。
曲の内容と時代が合っており人気が出たのです。当時は色々なところでこの曲の演奏を頼まれました。
時代が生んだヒット曲だったのですね。
四代目小三郎が初めて本格的な作曲に挑戦した曲です。
明治36年4月発表。小三郎26歳の時の作品です。
映像は昭和38年(1963年)ですので慈恭87歳です。
(※昭和38年6月~小三郎を5代目に譲り「慈恭」になりました)
明治39年、小三郎30歳・六四郎32歳の録音です。ラッパ型の吹き込み器に向かって演奏したそうです。
まだ日本に録音技術がなかった頃で、アメリカの技師によって作成されました。
録音して聴く事ができるまで、船便でアメリカ〜日本間を輸送して編集するため、2ヶ月くらいかかったようです。
小三郎が初めて自分の声を聞いた時、レコードの針の音や雑音が多く、これが自分の声かと耳を疑ったとのこと…
お手軽に録音して、すぐに聴いて修正できる現代、この頃からみたら夢のようですね。
小三郎が各曲についての思い出を語ったものも少しだけご紹介させていただきます。
二人椀久の思い出について慈恭は晩年、以下のように語っています。
二人椀久は三代目小三郎が得意とした唄でした。
「私に椀久を教えてください」とお願いしても「まだ早い」とはねつけられ、なかなか教えてもらえませんでした。
やっと教えてもらえるようになったところ、その稽古の仕方は他の唄とは違っていて
まず一番はじめに教えてくれたのが「お茶の口切り」その次に「干さぬ涙」その次に「行く水に」そして出端の「たどり行く」
それから鼓唄の「ふられず帰る」最後が「筒井筒」の謡ガカリという順序でした。
兎にも角にも二人椀久の一段を終わることが出来たその年の12月に三代目は亡くなりました。
それから三代目・二代目を知る老人達に自分の唄を聴いてもらい、研究を重ねました。
筒井筒は一生懸命勉強しても最後まで難しかったところで、三代目の唄を良く知る老人から
「お前さん、この筒井筒の事柄を知っているのかい。これは振分髪の昔、井筒の傍で遊んでいた幼馴染の男と女が、年を経て逢った時の恋の歌で、’妹見ざる間に’までは男の詠んだ歌で’君ならずして’は女の返歌だ。その心持ちを酌んで唄わなければ駄目だ」と叱られ、なるほどと気づいたことがありました。
工夫に工夫を積んで勉強して来ましたが、14歳から「二人椀久」の研究を始めて、それが本当に唄えるようになったのは40の声を聞いてからでした。長唄として、「二人椀久」は免許皆伝のものでしょう。
こちらの音源は30歳の頃の筒井筒。小三郎がまだ納得していない頃のものです。
後日、40代以降の筒井筒もご紹介できればと思います。
時雨西行は2代目杵屋勝三郎の作曲で、一中節を派手にして長唄にしたものです。
唄が3割、語りが7割で、唄浄瑠璃の部類になります。
私がこの唄を唄い始めたのは17歳の頃。
「一中節みたいで長唄らしくない」と言われ、あまり演奏されない曲でした。
しかし、私はこの唄を是非やってみたいと思い、自分なりに研究してみました。
ある程度できるようになったところで、自分の考えだけでは至らぬところがあるに違いないと、作曲者を訪ねてみることにしました。
当時、作曲の勝三郎は72、3歳の老齢でしたが、曲について快く話して聞かせてくれました。
私は作曲者の意見に、自分の工夫を加えて時雨西行を研精会で演奏するようになりました。
すると、この唄が流行るようになったのです。
演奏者と作曲者の情熱によって復刻された曲の一つです。
当時は作曲者にどんな気持ちでここを作ったのか?など、生の声が聞けたのですね。
小三郎は当時の録音の様子を以下のように語っています
三味線の「替え手」は腕のある人なら思いつくまま即興で色々な手を使います。
この録音の時も六四郎は「牡丹は持たねど越後の獅子は」のあとの合いの手のところで、変わった替え手を弾き、また「獅子の曲」の後の合いの手も随分変えて長く弾いたのです。
咄嗟のことに私もオヤと思ったものの、六四郎のことだから安心してその音色を聴いていると、いつものところでちゃんと次の歌詞を気持ちよく唄うことができました。
後で六四郎に聞くと、前もって用意していた訳ではなく、ありきたりのものではつまらないので、手の動くまま感興にまかせて弾いてしまったということでした。
これは即興演奏の替え手だったのですね・・・
昭和3年に、小三郎は助六の唄い方について語っていますのでご紹介させていただきます。
助六は中村歌右衛門八変化の一つで、十代目杵屋六左衛門の節付けです。もとが河東節なので節付けはほとんど河東節そっくりと言っても良いくらいですが、「恋の夜桜~こりゃ又何のこった江戸の花」までが長唄になっています。
置唄の「咲き匂う~助六が」は中村福助が再演した時に付けたものです。
唄う時には、ただ長唄という心持ちでなく、これは河東節だという心持ちで唄っても良いと思います。
助六の姿を表すように、華やかに、こんもりと、品良く、河東の心持ちで唄えばよろしいのです。
六代目 吉住小三郎・作曲
千昌夫さんのヒット曲『北国の春』を長唄にしたものです。