人生を変えた 團十郎の「鷺娘」

明治25年3月(初日24日)小三郎が歌舞伎座に出勤してちょうど2年経った頃、九代目團十郎が歌舞伎座で「鷺娘」を踊った時の事…

興行中の4月10日に神田錦町から九段下にかけての大火事が起きました。
小三郎は馬喰町の六四郎の家に泊まっていたのですが「きょうは芝居がやれるかどうかわからないけれど、行ってみよう」ということで出勤しました。
すると、三枚目を唄っていた松永久五郎が来なかったため、見習いの小三郎が三枚目に座る事になりました。
これが小三郎の人生を大きく変える事になります。
その日「ほんに涙のつららさえ」というところを一生懸命にうたったところ、その日はそれで済んでしまいました。
翌日出勤してみると、團十郎が六左衛門を呼んで「昨日唄った子どもに今日もあそこをうたわせるように」と鶴の一声があり、そのままそこを小三郎がつとめることになってしまったのです。
その一件がねたみの始まりとなりました。
同僚に「お前さん、芝居にでるのはおよしなさい。どんな間違いが起きるかわからないから」と注意されたり、大変な騒ぎで、小三郎は歌舞伎座を退いてしまいました。

九代目團十郎の「勧進帳」の後、六四郎も歌舞伎座を退く

翌年の明治26年5月、歌舞伎座で九代目團十郎が「勧進帳」を出すことになりました。

何とそこに歌舞伎座を退いた小三郎が呼ばれることになり、六四郎とともに出演しています。

この勧進帳が小三郎にとって歌舞伎の最後の舞台、六四郎にとっても芝居を退くきっかけの一つとなったようです。

六四郎は、翌27年に退座しています。

 

小三郎
16,7歳の頃

歌舞伎座を退座してからの芝居修行 市川新蔵との舞台

当時の劇場は歌舞伎座、久松座(明治座)、市村座、新富座などを大芝居

演技座、吾妻座(宮戸座)などを小芝居といっていました。
団十郎は門弟の市川新蔵、八百蔵(先代中車)を小芝居である赤坂の演技座へ出して勉強させたりしていました。
そんな時、新蔵と親しかった六四郎に声がかかり、明治28年、演技座の新蔵の舞台に六四郎、小三郎で出演する事になりました。
この時の演目は「狂獅子」で、六四郎、三郎助の三味線で小三郎がタテ唄を勤め、小三郎の門弟の小次郎、小三蔵、小作も一緒に出演しています。

必死でつとめた新蔵の「紅葉狩」

新蔵が同年秋に新富座で「紅葉狩」を出す事になった際、また六四郎、小三郎に声がかかりました。

新富座には芳村孝三郎、杵屋六太郎という専属がいましたが、新蔵が中に入り、1日替わりで舞台を勤める事になりました。
ところが「紅葉狩」は少し前に団十郎が五代目菊五郎と初演したばかりの新作。
六四郎と小三郎は全く知らない曲だったのです。
二人とも大変悩んだ末に、せっぱつまって初日前に新富座専属の六太郎に教わりに行ったところ、意外にも大変親切に教えてくれました。
小三郎は文字が読めなかったのですが、20歳という若さと必死さで、何とか一夜づけで唄を覚えたのでした。

初日の孝三郎、六太郎の舞台を、小三郎と六四郎は山台の後ろで全身を耳にして聞き、二日目から無我夢中で演奏し、どうにか無事に勤めあげたということです。

 

小三郎、芝居を卒業

新蔵は悪性の眼病に悩まされていました。

「紅葉狩」を最後に、病状が悪化し赤十字病院に入院しました。
ちょうどその頃、小三郎は赤十字の院長の橋本綱常先生のお嬢さんに長唄のお稽古をしており、橋本先生のお宅へお伺いするようになっていました。
橋本先生は長唄が大変お好きだったのですが、ある時「私は芸の神髄を知らないから知っている者を呼んで聞いてもらってやろう」と2回にわたって天下の団十郎と菊五郎を呼んでくださり、突然、二人の前で演奏するチャンスが訪れました。

小三郎が六四郎の三味線で「望月」を唄ったところ、菊五郎が「これだけできるのだからタテ唄になりなさい」と言ってくださり、翌月、大芝居である明治座で「左甚五郎」に出演。

待望の大芝居でのタテ唄を勤めることになったのでした。
小三郎20歳の時でした。
 
この一興行を勤めた翌明治30年7月、新蔵が37歳の若さでこの世を去り、小三郎はこれを契機に芝居の仕事を一切やめ、新たな道を踏み出しました。