長唄研精会の発足

小三郎、六四郎、小三郎の弟子の小三蔵、小次郎、小作らグループは、芝居やお稽古といった仕事のかたわら、聴き手なしのささやかな勉強会を時々開き、それぞれ勉強していました。

そうするうちに、すべて芸は作ったら発表して人に見聞きしてもらわなければ意味もないし、世間からも認めてもらえない、自分達で反省会を開くのもいいが、やっぱりお客に聴いてもらって批評してもらった方がいいという事になりました。
当時、小三郎、六四郎は芝居でタテを勤める実力になっており、名前も知られ、各界の名士の方々も応援してくださるようになっていました。
 
文化人の方では幸堂得知、半井桃水、坪内逍遥、饗庭篁村などが力になってくださいました。
こうした名士の方、新聞記者の応援のもと
第一回長唄研精会を明治35年(1902年)8月19日、東京•日本橋浜町の日本橋倶楽部で開催しました。
 
同年8月15日の東京朝日新聞に開催予告が掲載されています。
◯長唄研精会
今度長唄連中の内杵屋三郎助、六四郎、悦翁、正彦、吉住小三郎、望月長九郎、住田又兵衛等主唱者となり、斯道研究の為長唄研精会というのを組織し、来る19日午後正五時より浜町の日本橋倶楽部に於いて其の第一回を催す由。当日の番組は鶴亀、土蜘蛛、犬神、十二段、勧進帳にて、座上には十代目六左衛門の持ちし三味線猿岩(棹に折れ疵あり杵屋三郎助所有)というを飾り観覧に供する由なり。

長唄研精会は20代演奏家のチャレンジだった

四代目吉住小三郎(慈恭)によると…


その当時と申しますのは私の25,6の頃、日清戦争後の大変な不景気のどん底で、世の中がなんとなくじめじめしていた淋しいような時代でした。芝居の陰(下座唄)や踊りの地の長唄を、一つ独立させた音楽にしなければいけない。邦楽全般に新しい時代に沿ったものを、という点で賛成してくださる文士の方や、学者の先生方が何くれとなく指示してくださったり、力になっていただけましたので、それなりに考えることも多かったようです。こうした方々のお勧めもあって、それでは一つ長唄だけの演奏会を始めよう、ということになり、六四郎(後の二世浄観)と相談しまして、月に一回ずつ必ず演奏会を開いて世に問おうということになったのです。