21歳で作曲開始

三代目六四郎が最初に作曲したのは「横笛」、続いて「熊野(ゆや)」で明治27年、六四郎21歳の時でした。

六四郎は著書の中でこのように述べています。

 

従来の曲の手順などをよく研究し、創作に際して巧みに利用することが肝要なので、結局は自分の才覚より他はないのです。

作曲は一種の授かり物で、インスピレーションとでも申しますか、その時の境遇や頭の調子で、どうにでもなります。

しかし、何といっても特色あるものは若いうちにできるようです。

後年になって業を経てくると、欠点はなくなってきましょうが、だんだん臆病になって無難ということに落ち着いてしまうようです。古人の苦心なども分かってくるので、どうしても弱気になって突飛なことができなくなるんですね。



名曲「熊野」

現在でも名曲として演奏会で良く演奏される「熊野」は六四郎21歳の時の作品です。

一体、どのように作られたのでしょうか。とても気になりますね。

 

元来、邦楽の作曲は三味線方が主でした。

この時代の唄方は三味線を弾きませんでしたので、作曲の際は参考意見を言うくらい。

作曲者は誰に唄わせるか決めて、その唄い手の声の感じや雰囲気を曲に活かすという事をしていたようです。

熊野はタテ唄を四代目小三郎、ワキ唄を六代目芳村伊十郎に唄わせようと作曲したと言われています。

様々な名曲を作り出す、才能あふれる六四郎の隣で、小三郎は多くの刺激を受けていたようです。

若き日の情熱あふれる作曲の思い出を、小三郎は次のように語っています。

 

「熊野」が出来た時、私はまだ18歳、六四郎さんは21歳でした。

鳴物師で六郷新三郎という人がいて、3人寄るといつも芸の話をして、色々研究していました。

六郷さんは「これを長唄にしてみてはどうだろう」「あれはどうだろう」と非常に熱心な人でした。

その時「熊野」はまだ長唄に取り入れられていなかったので、早速長唄にしてみようと、六郷さんが謡本を持って狂言方のところへ行き、歌詞を長唄用にしてもらってきました。

それをもとに六四郎さんが作曲することになったのです。

 

六四郎さんは、一生懸命勉強して作曲したのですが、文(ふみ)の段がどうしても上手くいかず、困っていました。

「甘泉殿の春の夜の夢」というところを、どうやったら文を読んでいるようにできるだろう・・・

大変に凝った末に出来たのが「リャンリャンコロリン」という三味線の手。

これは、文を巻いて行く様子を表しています。

「花見」のところは昔からある手を用い、「清水寺の鐘の音~沙羅双樹の理なり」までは河東節を利用して作られています。

苦労の末に出来た曲を六郷さんに聴かせたところ、彼は能の「熊野」の鳴物をとても良く研究しており、すぐに鳴物の手を完成させました。

こうして「熊野」が出来上がったのです。

 

その時ちょうど六四郎さんの父、三郎助さんのお浚い会で、出来上がったばかりの「熊野」を発表させてもらえる事になりました。

唄はタテが小三郎、ワキが六代目芳村伊十郎、三味線は六四郎、杵屋勝三郎の2梃2枚。立別れの形式で発表しました。

「熊野」は発表と同時に大変な評判になりました。